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新潟県十日町市寿町2-6-25
アクセスマップ・地図
広い駐車場があります

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【東京駅から】越後湯沢駅で「ほくほく線」に乗り換え十日町駅下車

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TEL

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診療日時

月曜~金曜 9:00~12:30
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水曜午後・土曜午前は不定期診療です。お問合せ下さい。

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休診日

土曜午後・日曜・祝日 ※水曜午後は不定期休診

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心のスィッチ

当院では毎月、ニュースレター「なじだね?新聞」を発行しております。 「なじだね?」とは十日町地域では「いかがですか?」という意味があります。
新聞には「心のスイッチ」というコーナーがあります。 ここでは、”ちょっちいい話”や”心が温まる話”などを掲載しております。 その話を毎月掲載していこうと思います。
尚、題字の”心のスイッチ”は居酒屋てっぺんのオーナー 大嶋啓介氏に書いて頂きました。

第168号 2024年7月ニュースレターより

なじだね新聞

私は数年前に妻を交通事故で亡くしました。そして、昨年、一人娘を交通事故で亡くしました。二人とも、すぐ近所の幹線道路での事故でした。私はここ1年、生きるしかばねで仕事にも満足に行けない状態でした。このままではいけないと思いつつ、なかなか抜け出せなかったです。娘の命日に事故現場へ行き、花を手向け、祈っていると、近くで大きな音がしました。咄嗟に「交通事故だ!」と気づき、音の方向を向くと、小学生くらいの女児と母親らしき女性が倒れていました。

思わず近づき、女児の胸に耳を当てると、心臓が止まっています。そこで、急遽、近くの人の助けを借り、AEDで救命処置をしました。そのおかげで、心臓が動き出し、かけつけた救急車で運ばれて行きました。警察の事情聴取を受け、帰宅すると不思議なことに、仏壇の二人の写真が下へ落ちていました。

数日後、警察の人が自宅へ来て、二人の命が助かったことを知りました。AEDを使っていなければ助からなかったそうです。それから1か月後、その親子が、助けてくれたお礼にと自宅へ来てくれました。話を伺うと、なんと、その子の名前と死んだ娘の名前が同じだっただけでなく、年齢も娘の現在の年齢と同じでした。母親はシングルマザーで、娘を学童保育から連れて帰る途中の事故だったそうです。それ以来、私はその子が死んだ娘とかさなり、時々一緒に遊びに行ったりしていました。

その子が中学生になるある日、「○○さん、今度私のお父さんになってくれませんか」と突然言われました。突然の申し出に戸惑っていると、「お母さんも○○さんの事を好きだと思います。娘の私から見ていてもわかります。○○さんのおかげで私は助かり、母もとても明るくなり、楽しそうです。」その日は返事をせずに家に帰りました。仏壇に手を合わせて、今日の出来事を報告していると、「いいよ」と声が聞こえたように感じました。今では3人で生活し、私も仕事へ復帰、充実した日を送っています。あの事故がなければ私はこの世からいなくなっていたかもしれません。

第167号 2024年6月ニュースレターより

なじだね新聞

私は女子高校時代から不良で、両親には迷惑をかけっぱなしでした。短大卒業後はいろいろな職種を転々としていました。そんなある日、地元では老舗の菓子メーカーを営んでいた父が突然亡くなり、母も病気になってしまい、急遽、私がお店を継ぐことになりました。しかし、素人の私が後を継いでも、お菓子の事や経営の事をまったく知らない私にとっては毎日が針の筵でした。古参の従業員にはまったく受け入れてもらえず、経営は悪化する一方でした。

私は沢山の経営者に会い話を聞き、美味しいお店があるとしれば食べに行っていました。私にできることはそれくらいでした。そして、数年が過ぎた頃でさえ、経営はギリギリの状態が続いていました。「私にできることは何だろう」と考えていたら、近所のクリーニング屋さんのポスティングが入っていました。「これだ!」と思った私は文面を考えました。

しかし、勉強が苦手だった私は、何を書いていいかわかりませんでした。しかたなく、私が不良だったことや、その時のエピソード、店を継いだ訳、今までしてきたこと等を書き、商品の事は一切書きませんでした。3日間かけ1000軒へポスティングが終わりホッとしていると、開店と同時に大声で入ってきた初老の方がいました。

「誰や!こんな手紙をポストへ入れたのは」とえらい剣幕でした。「私です!」と恐る恐る、対応に出ると、意外な言葉が返ってきました。「こんな手紙もらったら買いに来るしかないやろう。俺も創業時苦労したんや」と言って、若い人たちをどんどんお店に入れ「お前ら!好きなだけ買え!今日は俺のおごりや。家族の分も買い忘れるなよ」その後も次々、お客さんが来てくださり「私の娘も不良だったのよ」「私も高校時代ぐれていたのよ」などと言ってくださりました。

その日はお昼には商品がなくなりそうになった時、最古参の職人さんが「○○ちゃん、いや、社長、見直したぜ。午後の分、明日の分は俺たちが残業してでも作るから心配するな」私が泣き崩れた社長記念日でした。

第166号 2024年5月ニュースレターより

なじだね新聞

「雪国の人の温かさ」

私は主人の仕事の関係で初めて雪国へ転勤になりました。単身も考えましたが、1歳の子供もいるため一緒に社宅に入る事にしました。最初の冬、慣れない車の運転で車が動かなくなっていると、買い物帰りの60代くらいの男性が運転席の私に声をかけてくれました。事情を知った男性は、車を押してくれましたがなかなか動きません。「ちょっと待ってて」と言っていなくなりましたが、すぐに数人の男性を連れてきてくれました。どうやら近所の工場の人達らしいです。

男性は「いいかい、これから全員で押すから、動き出したらそのまま行きなさい。止まるとまた動けなくなるから」と言ってくださいました。私は赤ん坊を乗っけていたので、お言葉に甘えてそのまま立ち去りました。後ろでは男性が手で「行け、行け」と合図していました。

後日、工場の人達へお礼に行くと「あの後、あの人がわざわざビールを買って持ってきてくれたんだよ」「俺たちはお互い様だからと断ったけど置いていってそのまんま帰ったよ」その工場の人達も誰だかは知りませんでした。それ以来、その男性には会っていませんが、今でも心から感謝しています。

第165号 2024年4月ニュースレターより

なじだね新聞

「全盲になった主人」

私の主人は全盲です。30代半ばに病気が原因で徐々に視力を失っていきました。最初に症状が出て医師から「将来失明します」と言われた時、主人は絶望の淵に立たされました。

それからは、生活も荒れたりしましたが、失明までの1年間は、失明に備えて夫婦で準備を進めていました。私も働き始め、主人は点字や鍼灸学校へも通いました。そんな時主人から「君の顔を忘れたくないから1日5分でいいからじっくり見させて」と言われました。

最初は恥ずかしかったけど、徐々に日課になっていきました。私もそれ以来、化粧はほとんどせずに、素顔を見せるようにしました。そして、いよいよ失明した時、一言、彼が言いました。

「僕は失明して二つ良いことがあるんだけど、なんだと思う」私は嗚咽しながら「何?」と聞くと、「歳とってしわくちゃになった自分の顔と君の顔を見なくて済むことだよ」と言った瞬間二人で号泣しました。

その後は、毎日、私の顔を、手で触れるのが彼の日課になりました。あれから、20数年経ちましたが、彼は私の顔を触れるだけで、私の体調がわかるようになったそうです。

第164号 2024年3月ニュースレターより

なじだね新聞

これは私が社会人になりたての時の話です。

私は最寄りの駅までバス通勤していたのですが、毎日の緊張感と疲労で風邪気味になり、本来なら休みたかったのですが、新人のためすぐに休むわけにもいかず、体調の悪い中バスに乗ってしまいました。その日は雨で湿度も高くバスの中は蒸し暑くなっていました。バスの中も満員状態でした。運よく椅子には座ることが出来たのですが、渋滞でなかなか進まず、電車に間に合うかどうか、どんどん焦ってしまいました。

そのうち、体調も悪くなり、気持ちも悪くなり吐きそうになってしまいました。なんとか我慢していたのですが、もうすぐ限界になって来た時、隣に立っていた男性が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれましたが、私は首を横に振るのが精一杯でした。「もうダメ!」と思い吐いてしまいました。その時、横の男性がすかさず、自分のバッグを開きました。私はなんとその中に吐いてしまいました。

車内は騒然となり、異臭が立ち込めました。その後は、彼と一緒にバスを降りたまでは覚えていたのですが、それ以降、気が付いたときは開業医のベッドで横になっていました。私を助けてくれた人は、「大丈夫だよ、君のバッグに社員証があったので会社へは連絡しておいたから」「先生はただの風邪だろうと言っていたから、落ち着いたら自宅へ戻って休んだらいいよ」「じゃあ、僕も会社があるから」と手を挙げて行ってしまいました。

彼は名前を聞く余裕もなく行ってしまいましたし、私は眼鏡をはずしていたので顔をはっきりと見ることが出来ませんでした。その後、看護婦さんから、彼が会社への連絡や汚物の処理などをした事を話してくれました。「今時、あんな好青年はいないわよ」と言われ、タクシーで自宅へ帰りました。彼の唯一の手掛かりは、バッグに付けてあった綺麗なお守りでした。それ以降、バスに乗る際はそのお守りを頼りに彼を探し続けました。

数週間後、寝坊して、一本後のバスに乗った際、ついに彼に再会できました。そのお守りは今、子供のランドセルに付いています。

第163号 2024年2月ニュースレターより

なじだね新聞

私は幼少の頃から養護施設で育てられました。私は両親の顔を写真でしか知れません。自動車事故で二人とも亡くなりました。チャイルドシートに座っていた私だけが助かりました。元々身寄りが少ない両親でしたから、結局は施設に預けられたようです。昔の事なので、いまさらその経緯を知りたいとも思いませんでした。

施設を出た私は、奨学金で大学を卒業し、一旦、一般企業に勤めましたが、結局、自分の育った施設の職員として働くことになりました。職員室の私の机の上には、私を抱いた両親の写真を飾っていますので、一人でいるときはその日の出来事などを話したりしていました。

ある日、宿直で残っていると、6歳の女の子がやってきました。「どうしたのかな、眠れないの?」と聞くと「ねえ、先生、この写真は先生の親?」と聞きました。「そうだよ」と答えると意外な事を言われました。「先生はいいよね、親の写真があって。私は何にもないよ」

そう、この子は捨て子でした。生年月日と名前だけが書かれたメモだけしか残されていなかったと聞きました。次の日の夕方、また、その子が来ました。「先生、私、この写真に話しかけていい」と聞くので「もちろんだよ」と答え、「先生もその日の出来事を話したりしているんだよ」と答えました。「先生、恥ずかしいからあっちに行ってて」と言うので職員室の隅で見ていると、何やら楽し気に話しかけていました。

それ以来、彼女だけでなく、他の子も来るようになりました。そのうち、その写真を子供たちは「先生のお父さん、お母さん」と言っていたのが、いつのまにか「私たちのお父さん、お母さん」と言われています。天国の両親も子供が急に増えたので、戸惑っているかな?不思議なことに、夜泣きをしたり、眠れずに職員室を訪ねてくる子もいなくなりました。今では写真は専用の棚の上にあり、周りにはお花やお菓子、手紙、成績表などでいつもいっぱいです。

第162号 2024年1月ニュースレターより

なじだね新聞

彼A君は、その年の元旦に初めて、1年の目標をノートに書いた。彼は引っ込み思案のため、なかなか人と付き合うのが苦手だったので、親しい友人もいなかった。勉強は嫌いではなかったが、英語は得意で、数学が苦手だった。このままではいけないと思っているときに、学校の図書館で何気なく借りた書籍に「目標や夢を、紙に具体的に完了形で書くと叶いやすい」という内容が書いてあった。実体験も多く載せられていた。

そこで一番に思いついた「何でも相談できる親友ができた」「数学で90点が取れました」という目標を書いた。他にも思いついたことを書いた。そのまま、ノートは引き出しにしまった。書いたことすら忘れていた4月、彼は中学3年生へ進級した。クラス替えもあり半分以上は新しいクラスメートであった。そこで出会ったのが、Y君だった。Y君は家が近いせいもあってか、登校時に出会うことが多かった。

ある日、彼がいきなり「ねえ、A君、君は英語が得意だったよね」「もし、明日の土曜日に暇だったら、僕のうちで英語を教えてくれない」と言われた。いつもの自分なら断っただろうが、頼られた事がうれしくて、「いいよ」と答え、翌日、Y君の家で勉強をした。そのうち、Y君からは数学を教えてもらい、お互い苦手な教科が好きになっていった。そして定期テストでは、お互いが数学と英語で90点以上を取った。

二人で答案を見せながら大喜びをしていると突然Y君が『実は僕は今年の初めに、ノートに「親友が出来た」「英語で90点取れた」と書いていたんだ。そしたら、両方とも実現したんだよ!だから、A君にだけこの秘密を教えてあげるね。』驚いたA君は事の成り行きを説明した。信じられない二人は、一緒に図書室へ向かった、そしてA君が借りた本の図書カードにはA君の名前の下にY君の名前が・・・・・

第161号 2023年12月ニュースレターより

なじだね新聞

「父のラーメン屋」

俺は父親の顔を知らない。小さい時に離婚し母に育てられたからだ。写真は母から見せてもらったこともない。ただし、母がうっかり父が料理が得意だった事を言ったのを覚えている。

ある日、出張で県外へ行った際に、昼飯を食べにラーメン屋へ入った。昼時なのにあまりお客もいなかったが、なんとなく入った。ラーメン屋だけど俺の好きなチャーハンを頼んだ。俺の好きな味付けだったので、それ以来、出張で行くたび食べに行った。

そのうち、お店の店主を「おやじさん」と呼ぶまでの仲になっていた。そんなある日、「『おやじさん』俺は母子家庭で父親の事を知らないし、『お父さん』と呼んだこともないので、すごくここに来るのが楽しいんだよね。今度、俺の母も連れてくるね。」

そして俺は母の日に、母親を連れお店に行った。お店に入った瞬間「あなた!」、親父さんは「〇子、どうしてここへ」俺は瞬時に状況が理解できたし、これで納得がいった。お店に俺の文字が使われていたこと、なんとなく懐かしい味がしたこと、親父さんと話が合うこと・・・・帰りの電車の中で、「母から嫌いになって別れたわけではない」「自分から身を引いた」などの事情を知った。

数年後、俺が通うラーメン屋には父と母が働く姿があった。

第160号 2023年11月ニュースレターより

なじだね新聞

「最後まで守った約束」

航空機事故はとても悲惨です。そんな中での出来事です。東南アジアの航空機で事故が発生しました。この旅客機は経費節約による整備不良が原因で飛行機自体の制御が不能になりこのままいくと海へ墜落する状態になりました。それを察した、乗客はそれぞれ、遺書を書き始めたり、家族の写真を見ながら祈ったりしていました。そんな中で、エドワードさんも妻の写真を見ながら裏にメモを書き始めました。

墜落後、すべての遺体や遺品が回収されました。遺書を書いたメモや写真が財布や内ポケットから見つかりました。遺体を確認に出向いたエドワードさんの奥さん(ジェーン)に対して、遺体安置所の係員は「ご主人の遺品は見つかったのですが、遺書らしき物は発見できませんでした」と申し訳なさそうに言いました。その時、ジェーンは係員に「すみません、彼の口の中を見ていただけませんか?」というと、係員は怪訝そうに、硬直した口を器具を使って開けたとたん「あっ!何かある」と叫びました。口から出てきたものはジェーンの写真でした。

彼女が裏を見ると“愛しているよ、約束は守ったよ”と書かれていました。エドワードさんは飛行機に乗る事が多く、日頃から「俺は飛行機での出張が多いから、飛行機事故の際には遺書は一番残る可能性が高い口の中に入れておくから」と言っていたそうです。
彼はそれを実行したのです。写真を見ながらジェーンは泣き崩れました。

第159号 2023年10月ニュースレターより

なじだね新聞

ある年の元旦、Aちゃんは小学校6年生でアパートでお母さんと二人暮らししている。新年と言っても誰が来るわけもなく、お年玉は毎年お母さんからの3,000円と決まっていた。Aちゃんは3,000円のうち2,000円で自分の欲しいものをわずかに買う程度だった。お小遣いは毎月1,000円だったので、ほとんど文房具を買ってなくなっていた。当然、ゲームなどは持っていないので友達と遊ぶこともなかった。日曜日でもお母さんは働きに出ているのでいつも一人ぼっちだった。そんな彼女にはいずれお母さんを幸せにしたいという漠然とした夢があった。

新学期が始まり、近所の美容室の前に「新人美容師の練習のためカット代無料」と張り紙がしてあった。そこは小さな美容院だったが高級そうな美容室だった。美容院代を節約するために髪を伸ばしていたAちゃんは思い切って、美容室のドアを開けた。

Aちゃんは小さい声で「あの~表の張り紙を見たんですけど、私でもいいでしょうか」
オーナーらしき人が「もちろんだとも」「さ~こっちに来て」と言って、椅子へ案内してくれた。いつもカット代金が1000円のチェーン店へ通うか、お母さんに切ってもらっていた彼女には、見たこともないような贅沢で豪華な美容室だったが、ワクワクする気持ちでいっぱいだった。

新人さんにカットしてもらった彼女は、鏡の前の自分を見て、あまりの変わりように驚いた。スタッフの方からも拍手が起き、お母さんからも「かわいいよ」と言われ、翌日、学校でも「かわい~」と言ってもらえた。あこがれのK君からも声をかけてもらった。「髪をカットしてもらうだけで、人はこんなに幸せな気持ちになれるんだ~」と思ったAちゃんは「将来絶対にカリスマ美容師になりお母さんを楽にしたい」という目標ができた瞬間であった。

第158号 2023年9月ニュースレターより

なじだね新聞

「かっこいい青年」

私は主婦ですが、日中は大手コンビニで働いています。この話はその時のエピソードです。

私はその日はお昼をまたぐシフトでした。同僚がコロナの濃厚接触者となり急遽休むことになったために、私は一人でレジの担当をしなくてはなりませんでした。祝日だったのですが、お昼時のためお弁当を買いに来る人で込み合ってきました。

12時を過ぎた頃、近所のおばあちゃんが買い物に来て、レジで会計をしている時です。おばあちゃんはバックから財布が見つからず、手間取っていました。そのため、あっという間にレジに列が出来ました。私も内心焦ってきましたし、並んでいる人も、イライラしている様子がわかりました。

そんな時です。レジ横でコーヒーを買おうとしている若者がツカツカ寄ってきました。 私は苦情を言われると思ったのですが、彼は私に突然「このおばあちゃんの会計はいくら」と言ってきました。その勢いに押され、つい「2,560円です」と答えてしまいました。それを聞いた彼は手際よく自動精算しおばあちゃんを脇へ移動させました。私やおばあちゃんがお礼を言うと「俺もコンビニでバイトしたことあるし、見ていられなくてね」「そして今日は敬老の日だからね」と言って出ていきました。彼の行為で一気に場が和み、その日一日気持ちよく仕事が出来ました。

この話は、このお店では伝説になりました。

第157号 2023年8月ニュースレターより

なじだね新聞

私は30年以上前、高校を卒業し社会人になりたての頃、社内でのパワハラをきっかけに引きこもりになってしまいました。当初は、少しは日中でも外に出ることが出来ましたが、だんだん誰にも会わないような夜中にしか外出が出来なくなりました。それも、家から10分くらいの海岸にしか行けなくなりました。

「このままではいけない」と思いつつ数年が過ぎました。「なにかきっかけがあれば」と思い、ある行動に出ました。それは、丈夫なガラス瓶へ手紙を入れ、“それを見た人から返事が来たら、その人に会いに行く”という目標を立てました。半分期待感と半分不安感でした。

ある日の夜中、私は手紙を入れた瓶を思いっきり沖に向けて投げました。“手紙には今の現状と、返事が来たら外へ出ようと決めた事、そして住所だけを書いて”…。

半年以上が経ち、海に投げ入れた事さえ忘れた頃、ある男性が家を訪ねてきました。そして、私が投げ入れたガラス瓶を持って。「〇〇さんですか?私は○○と申します。家の近所の海岸を犬を連れて散歩していたらこの瓶を見つけました。手紙を見たときは驚きましたが、実は私も同じような経験があり、手紙を書くよりは実際に会って話をした方がいいだろうと思い、失礼かとは思いましたが訪ねてきました。」

○○さんの話では、一時期、引きこもりになったそうですが、友人が根気よく外へ連れていってくれ、話し相手になってくれたのが、復帰のきっかけだったそうです。だからこの手紙を読んだとき「この役は僕しかいない」と思い訪ねてきてくださったそうです。その後、何度か手紙や電話でやりとりし、“今度、○○さんの所へ一人で行くこと”という事を決めました。そしてついに○○さんのところを訪ねることが出来ました。

今では、私の瓶を拾った海岸で、通りすがりの人に撮ってもらった、二人の写真と彼との結婚式の写真がリビングの壁に飾ってあります。そして、私は引きこもりなどの電話相談を行う仕事をしています。

第156号 2023年7月ニュースレターより

なじだね新聞

私は子育てが終わり、時間の余裕が出てきたので地元の道の駅で働き始めました。山の中にある道の駅でしたので、地元の食材を利用した食事を朝とお昼に提供していました。私は朝は強かったので、朝食を担当していました。

働いてしばらくしてから、ある事に気が付きました。毎月、70代前半くらいの男性が必ず一人で来店するのです。最初は特に気にはしていなかったのですが、毎月、同じ日に、同じ場所、同じメニューを頼む事に気が付きました。そこは、外の山の景色がよく見えるテラス席でした。
「不思議なお客さん」だなと思いながら1年ほどが過ぎました。冬場は来店されませんでしたが、ある日久しぶりに、同じ日にあのお客さんが来店されました。たまたま私が料理を運ぶ担当だったので、思い切って聞いてみました。「お久しぶりでしたね、このお席がお好きなのですか?」と尋ねました。「いつも同じ日に同じ席に座るから、変な人だと思っただろうね。実は今日は一昨年亡くなった女房の月命日なんだよ。この席は二人ともお気に入りでね、できるだけ月命日に来てここで女房と昔みたいに、色々話をするんです」私は思わず目頭を押さえてしまいました。「私はもともと無口で、家では女房とはあまり話さなかったけど、車の中やここだと素直にいろいろ自分の事を話せたんだよ、だから今もこうしてここで1か月あったこと報告しているんですよ」

話を聞き私はもらい泣きをしてしまいました。「済まないね、変な話をしてしまって」私はそんなことはないと思って、言葉に出そうとしたけど首を横に振るのが精一杯でした。それから1か月が過ぎ、また月命日が来ました。やはり、あの男性は一番乗りで来店されました。たまたま私が注文を受けたのですが、男性は「今日から女房の分も注文していいかな」と同じメニューを二つ注文されました。男性は「申し訳ないけど、女房の分はこのタッパーへ入れてもらっていいかな?女房はここの料理が好きでね。家に帰ったら仏壇に供えてあげたいんだよね」と言ってお気に入りの席へお二人で向かいました。

第155号 2023年6月ニュースレターより

なじだね新聞

「奇跡の再会」

私は2年前に地元へ帰ってきたがそれまでは大阪で会社勤めをし、その際に知り合った人と結婚した。しかし、妻とは1年もしないうちに交通事故で死別してしまった。正確には脳死状態になり、彼女の生前の意向で臓器提供するという別れ方だった。しばらくは大阪へ留まったが、妻との思い出がある大阪では生きていくのが辛く、地元へ戻って来た。地元で再就職したがなかなか妻の事は忘れることができなかった。

そんなある日、営業先の会社で若い職員とすれ違った際「あれ?この人とどこかで会ったことがある」と思った。しかし、年齢も自分より10歳くらい離れているように見えたので気のせいだと思った。しかし、それ以来、その人が気になりだした。そこで、思い切って聞いてみた。「すみません、以前、僕と会ったことがありますか?」しかし彼女は怪訝そうに「いいえ、ありません」とぶっきらぼうに答えた。その後、何度も仕事上で会う事があり、次第に会社以外でも会う事が増えた。彼女と会えば会うほど、どこかで会っているという気がしてならなかった。

ある日彼女をお酒に誘った際に「私、昔はお酒は飲めたのに手術後は飲めなくなったの」とか、「どんな音楽が好きなの」と聞くと「昔は洋楽が好きだったけど、手術してからクラシック、それもモーツアルトが好きになってきたの」と言った。「手術って何の手術なの」と思い切って聞いてみた。「私、心臓移植を受けているの」と打ち明けてくれた。私の妻もお酒は飲めず、モーツアルトが好きだった。以前、テレビ番組で“臓器提供を受けた人は、ドナーの性格が現れる”というのを見た事がある。まさかと思い「いつ手術したの」と聞くと、妻の臓器提供の日だった。私は確信した、「彼女は妻の心臓を移植されたんだ」こんな偶然があるんだ。でもこれで納得した。初対面で「どこかで会った気がしたことも」それから1年後、私は妻と2度目の結婚をした。プロポーズも最初と同じ言葉だった…

第154号 2023年5月ニュースレターより

なじだね新聞

私は雪国で道路除雪の担当をしております。主に町内の狭い道路除雪を早朝からしているので、「うるさい」とか「硬い雪を残していった」などと苦情を言われることもしばしばです。しかし、そんな中で、印象深いご夫婦がいました。

その家は古い家で、80代くらいの老夫婦が毎朝、お二人で除雪をしていました。除雪の際にはお二人で深々と挨拶をしてくれます。私もその方の家の前はできるだけ取り残しが無いように除雪をしていました。除雪が終わり家の前を過ぎる時にも、やはりお二人で深々と挨拶してくれています。その姿が、バックミラー越しに見えていました。

そんなある日、いつも通りに家の前を除雪が終わり、通り過ぎたあと、バックミラーを見たら、初めてお二人で手を振ってくれていました。助手席の相棒と「珍しいね」と言いながら、作業を続けました。その後は2週間ほど、降雪が無く、除雪作業もありませんでした。

久しぶりの降雪で除雪に出ると、老夫婦の家の前は真っ暗でした。不思議に思い、除雪中にご近所の人に聞いたらお二人とも相次いで亡くなられたそうです。あの最後の手を振る姿は・・・思わず泣いてしまいました。

その後も、無人の家ですが、今でも丁寧に除雪をしています。

第153号 2023年4月ニュースレターより

なじだね新聞

私は高校生の息子と二人暮らしです。しかし、血はつながっていない。再婚した妻の連れ子です。小学校の時に再婚し、数年後に妻はガンで亡くなりました。それ以来、二人での生活です。当初から私にはなつかず、彼は私の事を○○さんと呼びますし、私も○○君と呼び、お互いが同居人のような関係性です。私は何度も関係を良くしようと接し方を工夫したつもりですが、駄目でした。

そんなある日、私が交通事故にあい、大けがをしました。その時に、大手術になり、輸血が必要になりました。その時、一番動いてくれたのが彼でした。クラスの友人の両親に声掛けをしてもらい、人を集めてくれたおかげで十分な血液が集まったそうです。そして、病院の先生に「なんとか父を助けてください」と懇願してくれたそうです。この話は彼の担任の先生から聞きました。

実は先生から、驚く話を聞きました。彼は学校では「父」と呼んでいるそうです。その上、自分のような連れ子を実の息子のように扱ってくれて、とても感謝していたそうです。先生は「男の子だから、きっと照れ臭いんだと思いますよ」と言ってくれました。

退院後、相変わらずの息子に、私は退院後、ある行動に出ました。仕事から帰宅し、寝ている息子の部屋の扉の前に、私の気持ちを書いた、ノートを置いたのです。しかし、朝食の時の彼はいつもどおりで、一言も話さず学校へ…寂しい気持ちで帰宅するとすでに彼は寝ていました。ふと、妻の仏壇を見ると私のノートがありました。開くと彼の文字でびっしりと書かれていました。「お父さんへ…」その一言で号泣してしまいました。

翌朝、なんと彼が朝食を作って待ってくれていました。「今日は『お父さん』の好きな卵焼きを作ったからな!」私は涙で彼を見ることができませんでした。そして、卵焼きを食べたら「!?」この味は…妻の卵焼きの味…その時息子が教えてくれました。「ママが死ぬ数日前に僕にレシピを渡し、『いずれお父さんへ作ってあげてね』と頼まれていた」そうです。それから数年が経ち、今では実の親子以上の関係です。

第152号 2023年3月ニュースレターより

なじだね新聞

「プレゼントはどこへ」

私は会社の指示で、ある著名な先生の経営セミナーに出席した時の事です。セミナーの途中で受講生が手を上げて、講師に意見というより苦情を言い始めました。「あなたの言っていることは理論ばかり、あなたの書いた本通りにやっても成果が出なかった」などと言いがかりのような罵詈雑言でした。しかし、その間、一切講師は反論もせずに黙って、うなづいて聞いているだけでした。著名な先生だから、私は論破するのを期待していたのですが、内心、残念でした。業を煮やした主催者はその方を連れ出し、休憩時間になりました。

その時、ある受講生が質問しました。「どうして先生は反論しなかったのですか?」
先生は「あの方が、そう言うのならあの方にとってはそれが正しいのでしょう。ですから、正しいと思っている人に反論しても無駄です。それ以上に、大事なことがあります。もし、皆さんが、プレゼントを持って、好きな人の所へ行ったとしましょう。しかし、相手がそれを受け取らなかったらそのプレゼントはどうなりますか?」
「持ってきた人が持ち帰ります」と誰かが答えました。その時全員がハッと気が付いたのです。「その通りです、だから私は受け取らなかっただけです。あの方は私に言ったすべてを持ち帰るしかないのですよ、お気の毒ですよね」私は講師の言葉にシビレました。会社がこのセミナーを受けさせる意味が分かった気がしました。

第151号 2023年2月ニュースレターより

なじだね新聞

私は娘が小さいころ、アイロンがけのアイロンで娘の顔に火傷を負わせてしまいました。それ以来、娘には悲しい思いをさせてしまいました。学校ではいじめにあい、社会人になっても、通り過ぎる人から振り返られたりもしています。今は手術で多少はわからなくなりましたが、それでもまだまだ目立っています。そんな娘は私には何一つ恨み言は言いませんでした。

そんな娘がたった一度だけ、私に対して「どうしてこんな顔にしたの!」と泣き叫んだことがありました。それは社会人になりたての頃、好きな人ができました。同じ職場の人でした。密かに恋心を寄せていましたが、ある日、彼の本音を聞いてしまったそうです。その人が職場の人たちと話をしているときに、会社の中で○○さんだけは付き合えないよな!一緒にいるとみんなが見るもんな!」と言っていたそうです。それを、偶然、立ち聞きしてしまった夜に、娘は私に向かって号泣しました。

しかし、その後、なんと娘がその彼を連れて家にやってきました。なんと、今、その彼とお付き合いしているそうです。私にはその状況を理解することができませんでした。娘は号泣した後、悩んだ末、会社を辞めようと思い、同僚の女性に相談したそうです。その話が、その彼にも伝わり、彼から「話したいことがあるから、外で会えない?」と誘われ、まだ、好きだった人との最後の思い出にと食事をしたそうです。その時、なんとプロポーズをされたそうです。

娘は戸惑うばかりだったそうです。娘は正直に立ち聞きした時の話をしたそうです。「えっ!あの時の話を聞いていたの?あの時、会社の中で『付き合うとしたら誰がいい』という話になり、僕は君の事を好きだって言いたかったけど、それを言うと、君にそれが伝わり、冗談だと思われ、かえって君を傷つけるんじゃないかと思い、あんな答え方をしたんだ。でも、それが、かえって君を傷つけごめん」と話してくれたそうです。

「でも、今回の件が無ければ、自分から告白する事はなかったよ」「君は決してかっこよくない自分の内面を見てくれた唯一の人だ、そんな君に育ててくれたお母さんにお礼が言いたい」となり、今日来てくれたそうです。

第150号 2023年1月ニュースレターより

なじだね新聞

ウクライナのキーウに住むバーバラさん(7歳)は『早く戦争を終わらせるために、軍人に寄付』することにしました。「iPhoneを買うために貯金していたお金で、防弾チョッキを買って寄付したい」と母親に伝えたといいます。
(バーバラさんの母親)『「ママ、貯金箱ちょうだい」と言われた時、一切驚きませんでした。バーバラにとって初めての人助けではなく、普段からそのような子なんです』
貯金が足りない分は、路上で花を販売したり、花の絵を描いて販売するなどして補充。その結果、2つの防弾チョッキを寄付することができました。すると…
(店員)『あなたの夢を叶えたい。iPhoneをどうぞ』
周囲の大人たちがiPhoneをプレゼント。バーバラさんは今後も、防弾チョッキの寄付を続ける予定だそうです。

また、別の幼い姉弟は路上で自分のおもちゃを販売し、国へ寄付し続けています。別の子供は家でクッキーを焼き販売、絵の上手な子は自分の書いた絵を売ったりと、自分で出来ることを考え、支援し続けています。

日本国内でも様々な支援が始まっています。自分が持っている有名選手のサイン入りボールをネットで販売したり、家族に「手作りのお手伝い券」を作って、お小遣いをもらい、それをコンビニで寄付したり。様々な事を子供達が行っています。

あるお父さんは自分はお金を寄付することで支援したが、まだ、保育園の子供たちに何ができるかを考えたそうです。そこで、お父さんは、絵本を使って「争うとは何か?」などを伝えることにより、将来、平和の大切さを教えることが、遠まわりではあるが、将来の支援につながると考えたそうです。

また、あるお母さんは母子家庭で生活が苦しい中、一人っ子なのに子供へのおやつを買う際に、二つ分のお金を用意し、一つでお菓子を買い、一つ分は子供からの名目で募金箱へ寄付をしているそうです。

誰にでもできることはあるはずです、できることを考えやってみましょう。

第149号 2022年12月ニュースレターより

なじだね新聞

「コロナのおかげで」

僕は中学3年生の時に、家庭内感染のため、この中学で最初のコロナ感染者になってしまいました。コロナが蔓延し始めた初期の頃のために、学校は休校し、沢山の方へ迷惑をかけてしまいました。症状は軽かったですが、退院をし、約1か月振りに学校へ行くことができるようになったのですが、入院中から「学校へ行ってもみんなから敬遠される」「いじめにあう」などと体の事より、そっちの方が心配で仕方がなかったです。

元々、大人しい方で、どちらかというと、暗くていじられるタイプだったので、友人もなく、学校へ行くのが心配で仕方がなかったです。明日から学校へ行くという前の晩、クラスで体も大きく、リーダー格で、皆から一目置かれているA君から電話が来ました。ほとんど話をしたこともなかったので、「なんで?」と思って電話に出ると、「明日、7時半に家の前で待ってろ」と言われました。 彼はそれだけを言って電話を切りました。

「いじめられるんだ」と思って怖くなり、その日は、ほとんど眠れませんでした。翌朝、恐る恐る玄関を出ると、彼はズボンに両手を入れ、立っていました。「おはようございます」と言うと彼は一言「学校へ行きづらいだろ」「一緒に行ってやるよ」と言ってくれたのです。皆の視線やヒソヒソ話をする姿を見ながら、気まずい思いで歩いていると、中には、あからさまに感染を避けるような態度をとる生徒までいました。A君は色々話しかけてきましたが、僕は他の人の視線が気になり、返事をするどころではありませんでした。

その時です、突然彼が、僕の肩に手をまわしてきたのです。「もう感染するはずがないことを俺が証明してやる」と言ってくれたのです。結局、クラスに入るまで、肩を組んで行ってくれました。僕は嬉しくて、泣いてしまいました。クラスに入っても、常にかばう態度をとってくれました。リーダー格の彼のおかげで、皆の態度が変わり、無事に学校へ戻ることができました。帰宅時も彼が付き添ってくれました。

「どうして、一緒に登校してくれたの」と聞くと「俺には、足に障害を持った小学生の弟がいる、弟はいつも周りから変な目で見られる」「だからいつも一緒に通学していた」「俺にはお前の気持ちがわかるんだ」「だから放っておけなかった」 僕は号泣してしまった。おかげで、それ以来、彼とは親友となり、彼の弟とも一緒に遊んでいる。彼と一緒にいるだけで、自分も性格が変わり毎日を楽しく生活できています。今ではコロナに感染したことを感謝しています。

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